SELECT by BAYCREW’Sを綴る。#5デーヴィッド・マークス

「ファッションは自分らしくなる手段である」
「5歳の頃と全く同じ服装だ」と冗談をよく言う。最初は自虐のつもりだったが、最近、その証拠となる写真を見つけたのだ。数年前、実家で古い写真をスキャンしていたら、1980年代初頭の私と兄弟の写真を発見した。ツイードのジャケット、白いオックスフォードのボタンダウンシャツを着て、ポロのロゴが入ったクラブタイを付け、カーキ色のチノパンを履いている。恥ずかしいぐらい、今でも同じ服装をしている。
でも正直に言うと、この逸話は誤解を招くものだ。子供の頃はずっと「プレッピー」な服装をしていたのだが、中学生になると、そのスタイルを激しく拒絶するようになった。グランジやオルタナティブ・ミュージックを聴いていて、自分の嗜好を服で表現したかったのだ。大学に進学すると、日本でストリートウェアを発見し、Tシャツ、ジーンズ、スニーカーが毎日の装いになった。それがその後5年間の私のスタイルだった。
20代後半に白髪が増え始めたので、その髪に合わせてもっと「大人っぽい」服装をしたいと思い始めた。ちょうどトム・ブラウンがネオ・アメトラブームを巻き起こした頃で、子供の頃に着ていたアイビーリーグやプレッピースタイルを再発見したのだ。
旅は出発点に戻ったとはいえ、現代の大人なら誰もがやっていることをしていたにすぎない。つまり、服を選ぶことで自分を作り上げていたのだ。アイビースタイルは、おそらく父の影響を受けたのであろう。ルイジアナ州の小さな田舎町でティーンエイジャーだった父の古い写真を見つけた。父もまた、大学生になってからアイビースタイルを取り入れたのだ。
現代のアイデンティティは、いかに自己創造するかにかかっている。ジャン=ポール・サルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と結論づけ、哲学者ミシェル・フーコーはさらに「我々は自分自身を芸術作品として創造しなければならない」と問いかけた。
日本では、「セレクトショップ」という独自の小売業態のおかげで、これが特に容易になっている。セレクトショップが百貨店やブティックと異なるのは、さまざまなブランドのさまざまな商品を提供するだけでなく、それらを多様なアイデンティティとして提示している点だ。優れたセレクトショップは、バイヤーが世界中から最高の商品を選び出し、それらをどのように組み合わせるかまでを買い物客に教えてくれる雑誌のようなものだ。それは単なる店ではなく、教師なのだ。

日本をこれほどスタイリッシュな国にしたのは、セレクトショップの存在だ。知識は常にセンス向上の第一歩であり、セレクトショップは常に世界の最先端の商品を人々に伝えてきた。センス向上の第二段階は、「調和」だ。つまり何を組み合わせるかを知ることだ。そして、これこそがセレクトショップの最大の強みと言えるかもしれない。
21世紀にはインターネットが登場し、セレクトショップの「情報発信の窓口」としての役割は揺るがされつつある。しかし、虎ノ門ヒルズにあるSELECT by BAYCREW’Sは、セレクトショップが今世紀も長く生き残る道を示している。「自分探しは旅」と彼らは言うが、迷路のような店内レイアウトは、さまざまな地形や環境を巡る、まさに現実の冒険のようなショッピング体験を提供する。開いたフォーラムのような空間、アート作品を背景にしたデザイナーズブランド、コアな愛好家のための自転車店、本屋、大型メガネ店、ギャラリーなど、様々な要素が融合している。レディースショップ〈MUSE de Deuxième Classe〉は、まるでアメリカの牧場のような雰囲気でショッピングを楽しむことができる。(フーコーの『言葉と物』も所狭しと置かれている。)
しかし、この旅はただ買い物をするだけではない。SELECT by BAYCREW’Sを歩き回っていると、至るところでさまざまな自分を想像することができる。眼鏡店には、私が知っていた以上に幅広いフレームの選択肢があり、どれも新しい顔を創り出す可能性を秘めている。書店は、幅広い分野の専門家になる可能性を開いてくれる。
自転車店の近くのトラッドセクションで、私は今のスタイルを見つけた。そこでは、ネイビーのブレザーの下にMade in USAのオールデンのローファーが置いてある。しかし、近くのデザイナーズファッションは、もっと難しい領域へと自分を押し進め続けるよう促した。また、昔の自分を再発見し、戻るべきかどうか迷った。スニーカーブティックでは、最近復刻されたアディダス オリジナルスの「Japan」モデルが販売されていた。私はこの靴を、2002年頃、雑誌のインターンとしてわずかな賃金で暮らしていた頃にニューヨークで購入した。私にとって最も大切な宝物だった。シンプルでありながら高級感があり、1964年の東京オリンピックの国際主義的な時代を彷彿とさせる、私の好みを完璧に表現する靴に出会ったのは初めてだった。すっかり忘れていた。でも、今、新しい一足が欲しくなった。
テイストには、常にもう一つ重要な要素がある。それは「真実性」(=authenticity) だ。自分自身の人生の物語に合った服装をすべきだということである。20世紀の大半において、日本人が西洋のファッションを取り入れることは「本物ではない」という批判があった。日本にはアイビーリーグの大学はないのに、「アイビー」の服を着ていた。パンク精神のない若者が「パンク」な服装をする資格があったのだろうか?
しかし興味深いのは、この20年間でこの批判が消え去ったことだ。第一に、西洋のファッションは日本に深く根付いており、日本の新しい世代は皆、その長い伝統のもとで生まれている。日本は、西洋の他のどの国とも異なり、ファッションが息づく場所だ。第二に、自分の狭いコミュニティに「根付いた」服に自分を限定することは、もはや時代遅れの考え方だ。服は自分を創造する手段であり、過去の自分となりたい自分を融合させる必要がある。「真実性」を厳格に求めることは、創造性を制限してしまう。
自由意志を持つということは、自分自身を変える選択権を持つということだ。ファッションはそのプロセスにおいて重要な役割を果たしており、セレクトショップほど、始めるのに適した場所はないと思う。