「中心」はひとつではない。竹沢うるまが『Boundaries』で見つめた大地と人間。
写真家・竹沢うるまは、自身を「大地を撮っている写真家」と語る。そこに含まれるのは、風景だけではない。自然とともに生きる人々、伝統や文化を受け継ぐ身体、信仰の場、そして旅の途中で出会った時間もまた、彼にとっては大地の一部である。〈art cruise gallery by Baycrew’s〉で開催中の個展『Boundaries』のギャラリートークから、展示に込められた“境界”と“中心”の意味を読み解く。
すべての作品の根底にある「大地」というテーマ。

今回の展示は『Boundaries』というタイトルをつけています。なぜこのタイトルなのかについては追ってお話ししていきますが、まずは展示全体について説明させてください。ここに並んでいる作品は、僕が30代に入ってから、おおよそ15年から20年ほどの期間に撮影してきた写真たちです。主なテーマは“大地”。僕は、自分がどのような写真家なのかを聞かれたとき「“大地”を撮っている写真家です」と答えるようにしています。では、“大地”とは何なのか。

風景を写したものもありますし、人物を写したものもあります。僕にとって、自然と一体になりながら生きている人たち、あるいは伝統や文化を大切にしながら生きている人たちは、“大地”の一部と呼べる存在です。そう考えると、人間を撮ることもまた“大地”を撮ることだと言えるのではないか。そうした定義のもとで、僕は「大地を撮っている」と言っています。

2010年に発表した『Walkabout』、その後の『Buena Vista』や『Kor La』、その他の作品も含め、これまでいくつもの作品を制作してきました。それらを俯瞰して見ると、やはり一貫して“大地”という言葉で括ることができるのではないかと思っています。では、本展のタイトルである『Boundaries』とは何なのか。展示の構成を俯瞰して見ながらお伝えできればと思います。
内面を映す写真から、外へ問いかける写真へ。

今回の展示は、大きく3つのパートに分かれています。まず、会場中央に展示した作品群は、2010年に発表した『Walkabout』のシリーズを中心に構成しています。その後に発表した『Kor La』や『Buena Vista』の作品も含まれていますが、基本的には、自分で大地を歩き、対象を見つけ、撮影した写真たちです。“大地”というテーマがもっともわかりやすく表現されているのが、この中央の作品群ですね。

次に、こちらの壁面。アイスランドの風景を写した作品群で、2021年に制作した『Boundary | 境界』というシリーズです。先ほど説明した中央の作品群がどちらかというと自分の内面と向き合った結果のアウトプットであるのに対し、これらは外側へ向かう撮影行為として位置づけています。
2020年から2021年頃にかけて、制作のアプローチが少し変化しました。それまでは、自分が見てきた世界から何かを生み出していく感覚が強かったのですが、『Boundary | 境界』からは、まず最初に外側へ向けたテーマを設定し、その上でどのように旅をし、どうアプローチし、写真を撮っていくのかを考えるようになりました。

そして、もう一方の壁面には、人間の姿がずらりと並んでいます。これは『Boundaries』からさらに一歩踏み込んだ『Boundary|中心』というシリーズです。こちらも同じく初めにテーマがあり、それを前面に押し出す形で制作しました。文字通りではありますが、『Boundary | 境界』では“境界”をテーマとし、『Boundary|中心』では“中心”をテーマとしています。

つまり、展示会場の構成としては、両側にメッセージ性の強い作品群を置き、その中央に“大地”を置くという形をとっています。この構造を意識しながら見ていただくと、写真同士の関係性がより伝わるのではないかと思います。

会場に並んでいる写真は、主に2010年以降に撮影したものです。ただ、実際に僕が写真を撮り始めたのは1996年です。では、なぜ1996年から2010年まで、およそ14年間の写真がここにはないのか。その理由は、当時の僕がまったく違う分野にいたからです。1996年の僕はまだ学生で、仕事として写真を撮るようになったのは2000年頃から。最初は出版社の社員カメラマンで、水中写真を撮っていました。

今回の展示構成をおおうちさんと考えるなかで、最後まで迷ったのが、入口に置く写真でした。水中と陸上の間には“水面”という明確な境界があります。その意味では、水中写真も『Boundaries』に含まれるはずです。けれど最終的には、アイスランドで撮影した『Boundary | 境界』シリーズから選びました。
なぜ水中写真を置かなかったのか。在廊しながら考えていたのですが、おそらく水中写真を撮っていた頃の自分に、まだ納得できていない部分があるのだと思います。当時の撮影は、雑誌や広告など、誰かに見せることが前提にありました。自分の内側から撮るというより、受け取る側にどう応えるかを考えながら撮っていた。そのことに、少し疲れていたのかもしれません。
その後、2010年から3年間の旅に出て、『Walkabout』へとつながっていきます。そこから僕の写真は大きく変わりました。だからこそ、『Boundaries』というテーマに含まれるとしても、今回の入口に水中写真を置くことには、どこか納得できなかったのだと思います。
ただ、この展示を通して自分の15年、20年を振り返り、水中写真を一枚も置かなかったことで、もう一度水中写真を撮ってみたいという気持ちも生まれてきました。ここ数日、そんなことを考えています。
祈りとしての旅、『Kor La』へ。

このあたりの作品は、2016年に発表した『Kor La』というシリーズから抜粋しています。チベット自治区に入ることなく、チベット文化圏をぐるりと周りながら旅をし、撮影しました。
チベットにカイラス山という未踏峰があります。チベット仏教の信仰において非常に重要な山で、仏教徒の方々はその山の周りを、五体投地をしながら時計回りに巡ります。3周ほどするのですが、山を中心に祈りを捧げながら巡るその行為を「コルラ」と言います。「コル」は「回る」、「ラ」は「峠」という意味で、信仰の対象であるカイラス山には足を踏み入れず、その周囲を巡ることによって、より大きな祈りをそこに乗せていくんです。このシリーズでは、チベット自治区には入らず、その周囲に広がるチベット文化圏を巡りました。仏教徒ではない僕が「コルラ」を自分なりに体現することで、ひとつの大きな祈りの行為、あるいは祈りとしての旅をしてみようと考えたのです。
そのなかで訪れたのが、ブータン、ネパールのムスタン、中国の青海省や四川省、そしてインドのザンスカールやラダックといった場所です。
これは、そのときにザンスカールで撮影した写真です。「チャダル」と呼ばれる道があります。冬になると、ザンスカールへ行く手段はほとんどなくなります。雪が降り、道路はすべて寸断されてしまう。山を歩いて越えようとしても、険しすぎて越えることができません。
標高が4000メートルから4500メートルほどで、厳冬期である1月〜2月には気温がマイナス20度〜30度まで下がります。そこに川が流れていて、その川が、厳冬期だけ凍るんです。川が凍ると、氷の上を歩いてザンスカールまで行くことができるようになります。冬の間は、それが唯一の行き来の方法になる。その凍った道を「チャダル」といいます。僕が行ったのは2014年頃だったと思いますが、そのときは温暖化の影響で川の半分ほどしか凍っておらず、非常に危険だった。もし落ちたら終わりです。氷の下に入ってしまえば、川の流れもありますし、まず出てこられない。それでも、現地の人たちと一緒にテントや食料を背負い、1週間かけてザンスカールまで歩きました。マイナス25度ほどのなかでテントを張りながら進んでいく。そうして、ひたすら歩いていったときの写真です。
シャーマンの地と、山間のソバ畑。

こちらの3面に並んでいるのは、『Boundary|中心』からの作品です。2025年12月に発表したシリーズで、ここにある写真はすべてモンゴルで撮影しました。ツァータンという、トナカイを遊牧する人々に会いに行った時の写真です。
ツァータンは、モンゴルの中でも独特な文化を持つ人々です。多くの遊牧民がヤクや羊とともに暮らす中で、彼らはトナカイを遊牧している。さらに、その地域はシャーマニズムが非常に盛んな場所でもあります。僕は以前からモンゴルのシャーマンに会ってみたいと思っていて、この旅で実際に会うことができました。
移動は馬でした。秋の山は紅葉していましたが、すでに雪が降り始めていて、秋と冬が混在しているような時期でした。ここに並んでいるのは、その境目を撮った写真です。

そして、こちら側にあるピンク色の畑の写真。これも質問をいただくことが多いので、先にお話ししておきます。これはネパールのムスタンで撮影しました。ムスタンは、今ではおそらく車で行けるようになっていると思います。僕が訪れた時は、歩いて行くしかありませんでした。まずジョムソンという町があり、そこまでは国内線で行くことができます。ポカラから飛行機に乗るのですが、これが非常に怖い。ダウラギリという8000メートル級の山があり、その脇をすり抜けるように飛んでいくため、事故が多い路線でもあります。
ジョムソンに着いてからは、さらに1週間ほど歩きました。ローマンタンの手前にある、ツァーランという小さな集落です。僕がムスタンに行ったとき、どうしても訪れたかったのが、そのツァーランという村でした。この写真に写っているのは、赤やピンク色をしたソバの花です。
心の振幅が写る、旅の記憶。

こちらは、『Walkabout』の旅の終盤に撮影した1枚です。『Walkabout』は、2010年から2012年にかけて、南米、アフリカ、ユーラシアの103カ国を巡った旅から生まれました。
3年間も旅をしていると、旅そのものが日常になり、日本へ帰ることの方が非日常になっていきます。ユーラシアを西から東へ進み、地理的には日本に近づいているのに、「この旅をどう終えればいいのか」がわからなくなっていきました。
その終盤に訪れたのが、四川省のラルンガルゴンパです。2012年11月から12月頃、周辺は非常に不安定な時期でした。その中でたまたま雪が降り、祈りという目に見えないものが、目に見える形で立ち現れているような風景に出会いました。
その後、エリアを離れようとした最後の検問で、同乗していたチベット族の青年が、僕の目の前で暴力を受けました。戻ってきた彼は血を流し、顔も腫れていた。僕は何も言葉をかけられませんでした。すると彼の方から、「心配をかけてごめん。大丈夫だから」と声をかけてくれたのです。
暴力という負の力と、傷ついた本人が他者を思いやる優しさ。その両極端に同時に触れたとき、もうこれ以上の心の振幅はないと思いました。旅で撮る写真には、心の動きが写る。そう考える僕にとって、この出来事は、3年間の旅を終えていいと思える大きな契機になりました。

これはブラジルのパンタナールで撮影したカウボーイの写真です。おそらく、地球上で本当の意味でのカウボーイがいる場所は、ここだけなのではないかと思います。彼らは牛を数百頭連れて、何百キロも先まで旅をします。7人でひとつのチームを組んで移動します。
パンタナールは湿原地帯です。乾季の間は歩くことができますが、雨季になると水没してしまうので、道路を作ることができません。しかし牧草がとても豊かで、ブラジルの牛たちはそこで2歳まで育ちます。2歳になると、パンタナールの外へ連れ出される。そのときに、カウボーイたちが牛を移動させるのです。彼らは何百キロという距離を旅します。長ければ1カ月ほどかかることもあります。僕が同行したとき、彼らは2週間旅をすると言っていました。そのうちの1週間を一緒に過ごし、撮影しました。
こうした、自然の中で、その一部として生きている人たちと一緒に過ごしていくうちに、だんだんと「大地」という言葉が、自分の中に浮かび上がってきたように思います。

こちらは、ボリビアのポトシで撮影した写真です。『Walkabout』の旅を始めて3カ月ほど経ち、ガイドブックや人から聞いた情報をなぞる旅に、少し疲れを感じていた頃でした。
たまたま入った商店で近くの村の祭りを知り、訪れてみると、女性たちは着飾って踊り、男性たちは強さを示すように喧嘩をしていました。それは、若い人たちの出会いの場でもありました。
数日間通ううちに踊り子たちと親しくなり、祭りの終わりに、ひとりの女性が帽子の飾りを僕に渡してくれました。「私の代わりに、いろいろな世界へ連れていってほしい」と。
誰かが見た風景を追うのではなく、自分が出会ったものから旅をつなげていくこと。その大切さに気づかされた出来事でした。ちなみにこの踊りは「ティンク」といい、後にケチュア語で「出会い」を意味すると知りました。

これは南インドのケララで撮影した、カタカリの踊り子の女の子です。カタカリは、手や目の動きで物語や感情を表現する伝統芸能で、日本の歌舞伎に近いところがあります。僕が見たのは観光向けのショーではなく、寺院で行われる本来のカタカリでした。夜通し続く壮大な演目で、見続けるだけでもかなり大変でした。
この写真は、彼女が舞台に上がる前、準備の途中で撮らせてもらったポートレートです。最終的な姿も撮影しましたが、途中のこの表情がもっとも印象的だったので、ここに展示しています。

このあたりに並んでいるのは、『Walkabout』や『Buena Vista』、『Kor La』、『Boundary|中心』の中でも、メッセージ性を強く打ち出したものというより、旅をしながら撮っているスナップに近い写真たちです。僕が写真家としてテーマ性を強く意識するというよりも、旅をする人間として切り取っている写真だと思ってもらうと、わかりやすいかもしれません。

こちらは、アイスランドで撮影した『Boundaries』のシリーズです。白と黒を基調に、「境界」を表現しています。ただ、ここで見せたかったのは、境界が確かに存在するということではありません。むしろ、境界はとても曖昧で、時間や視点によって揺れ動き、やがて消えていくものではないか、ということです。
この写真には、雪、黒い火山灰の浜辺、海、そして鳥が写っています。潮の満ち引きや波、雪が降ること、溶けることによって、境界線は常に変わっていく。白と黒の間を飛ぶ鳥も、俯瞰した視点から見れば、そこをひとつの世界として捉えているのかもしれません。国境や宗教、人と人との間にある境界も、大地の時間から見れば、非常にもろいものです。そうした人間がつくり出した境界の曖昧さを、黒と白、そして鳥の姿によって表現したかったのです。
入口に置いた作品も、この考えをもっとも象徴する1枚として選びました。情報を極限まで削ぎ落とし、黒と白だけで構成されたビジュアルが、『Boundaries』というタイトルにもっとも近いと感じたからです。
遠い場所にある、もうひとつの「中心」。

最後に、『Boundary|中心』についてお話しします。このシリーズで考えたかったのは、境界を生み出す「中心」とは何か、ということです。境界は、中心と中心がぶつかった時に生まれるのではないか。そして、その中心が強固であるほど、境界もまた明確になっていくのではないか。そう考えました。
そこで僕は、自分たちの価値観から見た時に、できるだけ遠くにある「中心」を訪ねていきました。いわゆる「僻地」と呼ばれる場所です。ただ、僻地という言葉はとても相対的なものです。こちらから見れば遠い場所でも、そこには人が暮らし、何百年、何千年という時間が流れている。そこは決して周縁ではなく、ひとつの中心なのだと思います。
『Boundary|中心』では、そうした場所にいる人々を、同じ距離、同じ構図、同じモノクロームで撮影しています。見る側が彼らを見ているのではなく、彼らがこちらを見返している。そこには、中心の転換があります。大きな中心と小さな中心があるのではなく、それぞれの中心が並列して存在している。そのことを、この写真たちで表現したかったのです。
これらの作品は、すべて自分で暗室に入ってプリントしました。写真を撮ることは、その人に属する時間を自分の作品として引き受ける行為でもあります。だからこそ、できるだけ敬意を持って向き合いたかった。現像液の中から、かつてファインダー越しに見た人々の眼差しが浮かび上がってくる。その時間を、きちんと取りたかったのです。
この展示のタイトルを『Boundaries』にしたのは、僕が撮ってきた「大地」そのものに、さまざまな境界が含まれているからです。自然と人間、水中と陸上、国や宗教、人と人。その境界は本当に必要なものなのか。写真を撮ること自体もまた、人間と人間の境界を越えていく行為なのではないか。そうした複数の問いを含めて、『Boundaries』というタイトルにしています。

会期:2026年4月23日(木)〜 2026年6月21日(日)
場所:art cruise gallery by Baycrew’s
東京都港区虎ノ門2-6-3
虎ノ門ヒルズ ステーションタワ ー3F SELECT by BAYCREW’S 内

