LANG JP EN
( Magazine )
FASHION / CULTURE / PEOPLE / ART / FOOD / STAFF BLOG / FASHION / CULTURE / PEOPLE / ART / FOOD / STAFF BLOG /
BerBerJinディレクター 藤原裕さん
ART | 2026.5.18

竹沢うるまとおおうちおさむが語る、大地と人間、境界と中心。

〈art cruise gallery by Baycrew’s〉で開催中の、写真家・竹沢うるまの個展『Boundaries』。先日開催された、ギャラリーディレクター・おおうちおさむと竹沢本人によるトークイベントでは、「なぜ写真を撮るのか」「なぜプリントとして残すのか」、そして“境界”の先に何を見ようとしているのかをテーマに対話が交わされた。長年にわたり作品集制作を共にしてきた両者だからこそ生まれた、写真表現の本質に迫るトークの模様をお届けする。

Photo: Shoichi Yamakawa / Text: Nobuyuki Shigetake
SHARE

ストレートを投げ続けるしかない。

おおうち:個人的に、ロベール・ドアノー展の次は、どうしてもうるまさんの展示をやりたいと思っていたんです。うるまさんの写真って、本当にかっこいいんですよ。最初に出会ったのは、もう10年以上前ですよね。

竹沢:2015年の写真集『Buena Vista』の制作が一番最初ですね。

おおうち:共通の知人に紹介いただいて。僕はアートも写真も、まずはその人のパーソナリティから入るタイプなんです。もちろん、「アウトプットが良ければ、誰が撮っていてもいい」という考え方もあるし、それも尊重しています。でも僕はやっぱり、誰がどうやって撮ったのか、その人がどういう人生を歩んできたのか、そっちのほうに興味が向いてしまう。そういう背景があってこそのアウトプットじゃないと、本当に強いものにはならないと思っているところがあるんです。写真集を一緒につくっていく過程でも、「この人、面白いな」とずっと思っていて。その面白さはどこから来るんだろう、と気になっていました。

竹沢:僕もお会いする前からおおうちさんのデザインは見ていて、すごく印象に残っていたんです。ゴージャスなんだけど繊細で、独特なのに調和が取れている。相反するものがすごく繊細なバランスで同居していて、力強さがありながら優しさもある。すごく不思議なデザインをする人だなと思っていました。だから、「どういう人なんだろう」とずっと気になっていたんです。実際に一緒に仕事をしてみると、デザインから受ける印象そのままの人で(笑)。その後、『Kor La』という写真集を一緒につくったり、京都の石彫家さんの図録を一緒にやらせてもらったりもしました。ただ、途中で少し間が空いた時期もあったんですよね。その後、去年またご一緒することになった。僕の写真集制作が、いろんな事情でかなり遅れてしまって、進行が一気に佳境に入ったタイミングだったんです。デザイナーをどうしようかと考えていた時期に、たまたま都内を車で走っていて。僕、広尾近辺を車で走ることなんてほとんどないんですよ。20年に1回あるかないかくらい。そのくらい珍しいタイミングで、ふと車窓から通りを見たら、おおうちさんが歩いていたんです。「あれ?」と思って。ちょっと大きくなってるな、と(笑)。まあそれは置いておいて、その瞬間に、「あ、これは何か意味があるな」と直感的に思ったんです。「こういうことなんだな」と思って、メッセージを送ったら、珍しくすぐ返信が来て。

おおうち:行き詰まってる仕事なのに、締切を守らない僕に(笑)。

竹沢:連絡した時点でかなり大変な状況ではあったんですけど(笑)、それでも「おおうちさんとやりたい」と思ったんです。それで『Boundary|中心』という写真集を一緒につくることになって。その流れの中で、おおうちさんから「〈art cruise gallery〉で展示をやりませんか?」というお話をいただいた。もちろん嬉しかったんですけど、それ以上に「楽しみだな」と思ったんです。というのも、自分で展示をやる場合って、空間そのものを自分で構築するじゃないですか。それはすごく純度の高い表現になるし、自分の考えをもっともストレートに空間化できる。でも一方で、他者の視点が入ることで、自分では見えないものが立ち上がることもある。特におおうちさんは、これまで本当にたくさんの作家と仕事をされてきていて、独自の視点を持ちながらも、作家に寄り添いすぎないバランス感覚を持っている。もちろん、作家の話を丁寧に聞いて、それを忠実に形にしてくれる優しいデザイナーさんもたくさんいます。それはそれで素晴らしい。でも、おおうちさんは優しさがありながら、同時にすごく豪快でもある。その豪快さのなかに、「作家をどう再編集するか」「どう違う角度から見せるか」という視点が常にあるんですよね。作家を別の見え方へと導くことで、新しい価値を生み出そうとしている。だから、自分の写真が、おおうちさんの視点や手を通したときに、どんな空間になるのか。それがすごく楽しみだったんです。実際、『KYOTOGRAPHIE 2026』での森山大道さんの展示準備とも重なっていて、途中ちょっと消えちゃった時期もありましたけど(笑)、それも含めてすごく面白い作業だったなと思っています。おおうちさんとしては、今回どういう感覚で向き合っていたんですか?

おおうち:今、うるまさんが話してくれた通りなんです。いわゆる写真家さんたちって、それぞれに付着したイメージや方向性があるじゃないですか。でも僕はいつも、「もっと良いのにな」と思っているんです。もちろん、それまでその人の展示や写真集を作ってきた人たちを否定したいわけじゃない。でも、全然違う角度から光を当てたら、もっと光り輝く人っているんですよ。言葉では説明できないオーラを纏っている人というか。うるまさんには、それをすごく感じたんです。だから、京都の石彫家さんの仕事もお願いしたんですよね。その石彫家さんは名前はある程度知られてもいたけれど、どこか世の中にうまく伝わりきっていない感じがあったんです。もちろん作品も良いし、本人も真剣に取り組んでいる。でも、このままではなかなか届かないだろうな、と感じていて。普通なら、美術専門の写真家に頼むと思うんです。でも、それだと彼自身も、その先に行けない気がした。ちょうどその頃、うるまさんの本を何冊か一緒につくっていて、彼の人間性や物事との向き合い方を見ていたんです。変に格好をつけないし、背負いすぎない。そのぶん、アウトプットがすごくストレートに出てくる。想像もつかないような過酷な場所に行って、ただそこに立っている人を撮った写真なのに、被写体が放っているオーラみたいなものをちゃんと写し取るんですよね。「この人に石彫を撮ってもらったら、とんでもないことになるんじゃないか」と思ったんです。僕、『Kor La』のなかにすごく好きな写真があって、それを見せながら「こんな感じで撮ってほしい」とお願いしたら、アトリエにテントを張って、何泊も泊まり込みで撮ってくれて(笑)。あれは本当にすごかった。完全に、うるまさんの世界でしたね。

竹沢:ひと言で、だいたい理解できたんですよね。「ああ、こういうことか」と。僕の写真って、どうしてもストレートなんです。被写体そのもの、その存在の本質的な良さは何なんだろう、ということを、真正面から捉えようとしてしまう。それは良さでもあるし、同時に弱点でもあると思っています。一般的な表現って、本質を少しずらしたり、視点を変えたりしながら、新しい見え方をつくっていくことが多いじゃないですか。もちろん、僕もそういう作品は大好きなんです。「こういう本質を、こういう角度から見せるんだ」という驚きは、見る側からするとすごく面白い。でも、自分がやることではない気がしていて。

おおうち:でも、真正面から撮るのって、本当はすごく難しいことですよね。

竹沢:そうですね。野球で言えば、変化球を使わずストレートだけで勝負するなら、160キロじゃ足りなくて、170キロを投げなきゃ成立しない、みたいなことだと思うんです。150キロくらいでストレートを投げていても、それはもう成立しない。だから、本当は変化球を使ったり、タイミングをずらしたりするアプローチもある。でも僕は、「変化球を投げたな」と思われるのが、どこか嫌なんですよね。だからもう割り切っていて、「自分はストレートを投げ続けるしかない」と思っているんです。

“竹沢うるま”そのものを空間化したかった。

おおうち:うるまさんの場合、“うますぎる”ことが弱点でもあり、最大の長所でもあるんですよ。今の話を聞いていて、まさにそうだなと思った。今回、『KYOTOGRAPHIE 2026』で森山大道展を組んでいて、ものすごい量の写真と向き合ったんですけど、その時も、ずっとうるまさんのことを考えていたんです。森山大道って、イデオロギーがないんですよ。ただそこにある出来事や、人の営みを、ひたすら撮っている。写真のすごいところって、何度でも生き返ることなんです。撮られて、プリントになって、本になって、それがまた別の文脈で再構築される。その繰り返しのなかで、何度でも新しい命が生まれる。それを、森山さんの写真からものすごく感じたんです。うるまさんの写真にも、実は近いものを感じています。うるまさんは森山さんみたいに街をノイズごと切り取るタイプではない。でも、「何かを背負って撮っている」わけじゃないんですよね。ただ、その土地に惹かれている。そこに残っている人の営みや痕跡に、自然と引き寄せられている。人が写っていない写真にすら、“人の気配”が見えるんです。それって、長い時間をかけて彼が積み上げてきたものが、写真の奥に滲み出ているからだと思う。だから今のうるまさんなら、作品を壊して、再構築して、また新しい命を与えることができる段階に来ていると思うんです。若い作家だとまだ難しい部分もあるけれど、うるまさんの場合は、もうそれが可能になっている。僕は最初に言ったように、作家のパーソナリティをすごく大事にしているんです。誰が撮ったのかを抜きにして、作品だけを語ることはできないと思っている。だからこそ、その作品を僕というフィルターに通すことで、また別の世界が立ち上がるんじゃないか。そんなチャレンジを、ずっとやっているんです。本当は、そんなこと誰にも頼まれないから、自分で芸術祭を立ち上げたりしてるんですけど(笑)。なので、うるまさんには僕の芸術祭にも出てもらおうと思って。

竹沢:『マツモト建築芸術祭』ですよね。

おおうち:今年は10月末から1カ月半ほど開催予定で、今回で第4回目です。予算も限られているなかで地道に続けてきたんですけど、最近ようやく評価をいただけるようになってきて。今回がひとつの集大成かな、とも思っています。『マツモト建築芸術祭』も、考え方としては今回の展示と同じなんです。新作を求めているわけじゃない。たとえ誰かの代表作でも、僕のフィルターを通して松本という場所に展開すれば、それは新作になると思っている。今回の展示もそういう感覚でやりたかったんです。うるまさんって、ものすごく“テーマ性”のある作品や展示をやってきた人じゃないですか。でも、今回はそれを一度全部フラットにして、“竹沢うるま”そのものを空間化したかった。

竹沢:写真集や展示をつくる際に設けるテーマは、自分のなかから自然に出てきたものではあるんですけど、「それを強く主張したいか」というと、実はそこまででもないんですよね。ただ、作品をまとめるうえで、ブレない軸は必要だから、その時々で自分にとって確かなものを選び取っている。でも、おおうちさんが言ったように、自分の写真との向き合いかたを振り返ると、写真を始めたばかりの頃から今に至るまで、一貫して“言語じゃない部分”がすごくあるなと思うんです。「大地」や「Boundary」という言葉を添えてはいますが、そもそも僕はカテゴライズされることがすごく嫌いなんですよ。国とか人種とか国境とか、そういうカテゴリーに物事を当てはめて見ること自体に、ずっと違和感があった。もっと言語にならない、本質的なものが世界にはあるんじゃないか、と。あまりにも真正面すぎるし、大きすぎるテーマなんですけど。ただ、アウトプットする以上、最終的には言語で切り分けて、パッケージ化して、人に届ける作業になる。そこにはどうしても矛盾があるんです。でも、こうして展示空間として並んだものを見返していると、「なぜこれを撮ったんですか?」と聞かれても、結局うまく説明できないんですよね。もっともらしい説明はいくらでもできます。でも、本当のところは、「良いと思ったから撮った」。それが正直な感覚なんです。この感覚を包括するのは、「大地」という言葉が一番近い気がしている。「大地」でも「Boundary」でも、どちらでもいいんですけど。僕の中では、「自然」と「人間」を分ける二元論的な考え方自体に意味を感じていなくて。いろんな土地で人と出会うなかで、人間もまた自然の一部なんじゃないかと思うようになったんです。自然を人間がコントロールする、とか、人間は自然とは別の存在だ、とか、そういう考え方があまりピンとこない。人間もまた自然の一部として存在しているんじゃないか、と。だから結局、そこには境界がないんですよね。僕にとって「Boundary」というのは、境界を引くための言葉ではなくて、むしろ境界がないことを確認するための言葉なんだと思います。

おおうち:本質を追い求めていくと、結局いろんなことがボーダレスになっていくんですよね。『Boundary|中心』を一緒につくったとき、それをすごく感じました。うるまさんはいろんな地域で、その土地固有の文化や祭事、人々の営みを撮っている。それらを並べていくと、結局みんな同じところに行き着いている気がする。寒い土地でも暑い土地でも、都会でも僻地でも、人間の欲求とか生きるための営みって、本質的にはそんなに変わらない。土地柄や環境によってアウトプットの形が変わっているだけで、根っこには共通した“中心”みたいなものがある。それがすごく面白かったんです。

竹沢:締切は守れなかったですけどね(笑)。

おおうち:いやいや(笑)。でも、鮮度が大事なんですよ。早く仕上げすぎると、どんどん劣化していく。野菜だって、切った瞬間が一番みずみずしいじゃないですか。デザインも、あまり民主主義的になりすぎるとダメなんです。いろんな意見を入れすぎると、最大公約数的なものになってしまう。クリエイティブには、ある種の偏りが必要なんですよ。

竹沢:おおうちさんって、最終的にはすごく作家側に立ってくれるんです。それはわかっていたので、今回は最初から「口を出さない」と決めていました。自分の作品を、きちんとした視点を持った他者に預けてみたいと思ったんです。おおうちさんの視点を通すことで、自分の見え方が変わるかもしれない。新しい世界が開けるかもしれない、と。だから今回は、「全部委ねよう」と思っていた。自分にとって、それだけ信頼している存在なんです。

せめて手間をかけたい。

竹沢:今回の展示を自分なりに解釈すると、まず入口の白と黒の空間は、“境界”をわかりやすくビジュアル化したものだと思っています。その境界を越えていく存在として、小さく鳥のモチーフが入っている。そして中央の空間は、『中心』の世界ですね。いろんな価値観や文化、人々の営みが並列に存在している場所。その奥のモノクロの作品群は、今回いちばん時間をかけました。暗室で1枚ずつプリントして、本当に大変だった。1枚仕上げるのに2日くらいはかかるので、本当に朝から晩まで作業していました。暗室でプリントしていると、面白い瞬間があるんです。撮影自体は一瞬なんですよ。15秒とか30秒とか、そのくらい。でも、時間を置いて暗室に入って現像をすると、現像液の中から、彼らがふっと浮かび上がってくる。暗闇の中で、改めて目が合うんです。それがすごく面白い。僕はずっと、人の写真を撮ることに対して、どこか“搾取”している感覚があるんですよ。写真を撮るという行為には、暴力性があるとも思っている。だからこそ、せめて手間をかけたい。暗室で時間をかけて、一枚一枚向き合いたい気持ちがあるんですよね。

おおうち:自己内でのバランスですよね。

竹沢:そうですね。ある意味、自分のなかでのバランスを取るための儀式みたいなものなのかもしれないです。

おおうち:本当にすごいなと感じたのが、あの赤い顔料を塗った3人の写真。最初、スタジオでライティングして撮ったみたいに見えたんですよ。でも、あんな光って絶対につくれない。

竹沢:あれはかなり奥地で撮った写真ですね。その地域では男性が化粧をして女性の気を引く文化があって、写真に写っている3人は全員男性なんです。彼らの存在は知っていたんですけど、たまたま小屋に入ったらそこにいて。すぐに「撮りたい」と思った。でも、いきなりカメラを向けるのも暴力的な気がして、まず少し話をしたんです。もちろん言葉は全然通じないんですけど(笑)。

おおうち:じゃああの光も、本当に偶然そこを照らしていただけというか。

竹沢:基本的には、その場にある光だけで撮るようにしています。自然光で撮る、というのは自分の中でずっと決めていることなので。人工的につくり込むより、その場に存在していたものを、そのまま受け取りたいんです。

おおうち:瞬間的に、このバランスが全部揃っているんですよね。

竹沢:そうですね。この写真を撮った頃は特にそうだったんですけど、旅をしている間、目に映るものすべてが“写真”に見えていたんですよ。人の顔に落ちる影とか、光の入り方とか、「これを撮ったらこうなるな」って、撮る前から見えている感覚があった。それはそれで、すごく疲れるんですよね。常に意識がそっちに向いているから。かなり消耗していた時期ではあったんですけど、そのぶん、「この光だな」という瞬間を敏感に捉えることができました。

おおうち:この3人の配置とかもすごいですよね。

竹沢:それも本当にたまたまなんです。何も指示していない。そこに立って、とか、そういうことも一切言っていないです。

おおうち:なんか、写真の神様的なものが降りてきてる感じがありますよね。ものすごいバランスですよ。170キロくらい出てる(笑)。

竹沢:(笑)。でも、自分のなかでは方法論として説明できる部分もあるんです。皆さんは、僕の写真を通して“この瞬間”だけを見ているから、こういう瞬間が常にあると感じるかもしれません。でも実際には、数えきれないほどの“空振り”がある。もちろん狙っているわけではないので、空振りという言い方も違うんですけど、とにかく膨大な蓄積があるんです。「これは違う」「これも違う」って、何万回も繰り返している。だからこそ、「これだ」という瞬間が来た時に、すぐわかる。ただ、それは僕の強みでもあり、弱みでもあるとも思っていて。結局、自分の感覚で判断してしまうから、地域が変わっても、出会う人が変わっても、写真に写っているものに共通性が現れてくる。だから、おおうちさんみたいな人の視点が入ることで、それをより磨き上げることもできるし、壊すこともできるだろうな、というのは理解しています。最近はもう、撮っている時点ではあまりそういうことは気にしなくなってきましたけど。

おおうち:これっていつ頃撮った写真?

竹沢:2011年ですね。

おおうち:左下の写真も、似た光だよね。

竹沢:そうですね。これも自然光ですし、ポーズの指示もしていません。ただ、光を見つけると、そこに何度も足を運ぶんです。何度か訪れているうちに、たまたま人が現れるタイミングが来るんですよね。この頃は特に、“光”に反応していました。ただ最近は、あまり綺麗すぎる光だと、なんか“Instagramっぽい”なと思って、逆に避けようとするときもあります。

おおうち:でも、インナーなレベルの話だよね。

竹沢:そうなんです。僕自身、かなり光を選んで撮っているので、見る人によっては「ライティングしてるんじゃないか」と思われることもある。でも、別につくっているわけではない。

おおうち:別に、つくってたっていいじゃない(笑)。

竹沢:まあ、そうなんですけど(笑)。下にある写真もそうですが、あれは上の2枚みたいに、目で明確に認識できる光ではないんです。最近のカメラって感度が高いから、人間の目では感知しきれない光が、写真に映り込むことがある。あのあたりの写真は、そういう光を使っているんです。技術的な話はいくらでもできるんですけど、最終的にはそれもあまり重要じゃない気がしていて。

不純物がないから美しい。

おおうち:僕、この『Boundaries』が本当にすごいシリーズだと思っているんです。もう、何千枚もあるんですよね。このレベルの写真が、ばんばん出てくる。見ていると、本当に心が踊ってくるんですよ。さっきのうるまさんの説明もその通りなんだけど、僕には全部“動物”に見えるんです。この雪原の写真もそうだし、鳥の写真もそうなんだけど、全部が生き物みたいに見えてくる。

竹沢:なるほど。それを聞いて腑に落ちました。最初、おおうちさんがこの写真と、向こうにあるヤクの顔の黒い写真を並べていたんですよね。僕は「なんでこの組み合わせなんだろう」と思っていたんですけど、そういうふうに見ていたんですね。

おおうち:そう。人を撮っていても、滝を撮っていても、全部が“ひとつの生命”に見えてくるんです。

竹沢:動物が好きだからかもしれないですね。動物って、基本的に嘘がないじゃないですか。自然もそうですけど、嘘偽りがない。人間はどうしても、いろんな嘘や建前を抱えている。でも自然は、何万年という時間を積み重ねて、その形になっている。そこには不純物がないんですよね。だからこそ、美しいと思う。

おおうち:あと、量がもたらすコンセプトの推移ってあるんですよ。今ここには6〜7点くらいしかないけど、これが100点とかになったら、また全然違う現象が起きる。一枚一枚のポテンシャルも高いんだけど、集合体になった時に、また別の“生き物”が現れるんですよね。しかも、ここに並んでいるのは全部Cプリントなんですよね。

竹沢:ちゃんと印画紙に焼いています。インクジェットじゃなくて。

おおうち:いわゆるゼラチンシルバープリント。もちろんコストもかかるんですけど、この写真に関しては、圧倒的にCプリントの良さが出ていると思う。本当にかっこいいんですよ。しかも、小さいサイズでも成立する。実は明日から、隣の店舗内にも新しい展示が出るんです。せっかくショップとギャラリーが併設されているから、ちゃんと連動したかった。それを実現するためにも、あらゆる“境界”を越えていくことが必要なんですよね。

2000年後にも愛でられ、守られるもの。

おおうち:今後のことも話しましょうか。これは言っていいのかな……

竹沢:いいんじゃないですか。

おおうち:まあ、いいか。少し先の話で、うるまさんが日本を撮るという構想があるんですよね。僕はうるまさんがこの先どうなっていくのか、すごく興味があるんです。ある意味、今はちょっと完成している感じがある。ここから先は、たぶん“破壊”のような行為から生まれてくると思うんだけど、その意味で日本はすごい場所だと思う。

竹沢:来年、おおうちさんとそういうことをやろうかなと話しています。僕が日本を撮るということにも、自分なりには意味があるんです。これまで、日本の写真ってあまり撮ってこなかったんですよ。たぶん本当は、自分が生まれ育った場所だから好きなんでしょうね。でも、だからこそ知りたくない、みたいな相反する感覚があったのかもしれない。海外をたくさん旅して、日本の外側を見て、自分なりの感覚や言葉がようやくできてきた。自分がやってきたことが、点ではなく線になって、さらに球体のようになってきた感覚があるんです。おおうちさんは「完成形」と言ってくれましたけど、広がる一方だったものが、ひとつの形になってきたというか。その形が自分のなかにできたときに、日本という場所を見たら、すごく面白かったんです。最初は仕事で、1年間かけて日本を撮るという依頼をいただいたことがきっかけでした。そこで改めて日本を見てみると、本当に特殊な場所だなと感じたんです。東京という場所の異質さは以前から感じていましたけど、自然に目を向けると、日本はこんなにも水が豊かで、美しく、いろいろなものが循環している場所なんだなと。常に動いて、流れて、移り変わっていく。たとえば桜を撮っていると、本当のピークって5分くらいしかないんじゃないかと思うんです。1日とか半日ではなく、もっと短い。滝もそうで、梅雨の時期に何度も通って撮るんですけど、少し時間が経つだけでまったく違う姿になる。その“変わり続ける面白さ”をまとめてみたいと思ったんです。まとめるにあたって、誰にお願いするのがいいのかと編集者と話した時に、「おおうちさんじゃないか」となりました。

おおうち:あそこにも何点か、日本の写真がありますよね。あの岩の写真、大好きなんです。あれも動物みたいに見える。

竹沢:鹿児島県の黒島ですね。1日中いましたけど、誰ひとり来ませんでした(笑)。

おおうち:世界中を撮ってきたうるまさんの視点で、日本をそのまま撮れている感じがあるんですよ。普通に日本を撮ろうとしても、ああはならない。だから、その視点が色濃く残っているうちに、日本を撮りまくるのはすごくいい気がしています。

竹沢:そうですね。付け加えるなら、究極的には、写真ってアーカイブだと思っているんです。単に「その瞬間があった」という記録ではなく、感覚のアーカイブだったり、時代のアーカイブだったり、その人自身がそこに存在していたという心の揺れのアーカイブだったり。今の時代こそ、ある瞬間にそういうものが存在していて、それに対して人間が何かを感じていたということを、写真として残していくことが大切になっているのかもしれないと思います。とはいえ、あまりに壮大すぎる話ではあるので、僕はただ、そのときにやりたいと思うことを、真正面から一生懸命やるだけにしておこうと思っています。出てきたものに意味づけをしたり、評価したり、方向づけたりするのは他者に任せて、今は自分のやりたいことをやるだけですね。

おおうち:現代の人って、2000年後の文化財をつくる気があまりないじゃないですか。2000年前のものは一生懸命守ろうとするのに、2000年後に研究対象になるもの、文化人類学的な役割を果たすものをつくる意識がない。僕は松本の博物館のプロデューサーもやっているんですけど、いつもその話をしているんです。建築もスクラップアンドビルドばかりで、何が本当に価値あるものなのか、判断できなくなっている。でも、この時代にしか生めないものを、2000年後にも愛でられ、守られるものとして残していかなきゃいけない。写真は、それになり得るものだと思っています。だから、とにかく紙にしてほしいんです。デジタルのままだと、この世から電気が無くなったら見れなくなってしまう。物理的なものとして、反射物として残してほしい。人間って、反射光でしか本当に感動しないと思うんです。透過光では感動しない。ラップトップで見るデジタル写真集では、やっぱり限界がある。紙になって、光が跳ね返ってきて、実体感を伴って初めて心に入ってくる。映画もそうですよね。映画館で見る映画は、光が一度スクリーンに当たって跳ね返ってくる。だから実体を帯びる。紙の本も同じで、デジタルブックではなく紙で読んだほうが自分のなかにすっと入ってくる。本って、読み進めるにつれて片方が重くなっていくじゃないですか。ああいう身体的な感覚も含めて、本なんです。だから、とにかく紙にしましょう、ということを強く訴えていきたい。2000年後の文化の豊かさは、僕らにかかっているという自覚を持った方がいいと思うんです。それと、若い写真家に伝えたいのは、技術論よりも、人の厚みなんです。人としての深さや厚みがあれば、技術はどうにでもなる。どう生きたいのか、何に興味を持っているのか。そのセンサーを磨いた方がいい。あとは、撮った後に良いものを見つけられる選球眼。いいものを撮っていても、自分が気づかなかったら意味がない。そのためには、良いものをたくさん見た方がいい。このギャラリーにも100回くらい来て、3枚くらい買ってください(笑)。

竹沢:質問をひとつ受けましょうか。会場内の写真についてでもいいですし、おおうちさんに質問できる機会もなかなかないと思うので。

― アイスランドの写真は、どのように撮られたんですか?

竹沢:この頃は何度かアイスランドに通っていて、いつも冬から春、あるいは秋の入口など、季節の変わり目を狙って行っていました。季節の変わり目って、ものすごく荒れるんです。低気圧が来て、天候が大きく崩れる。僕は大地の表情が欲しかったので、できるだけ荒れているタイミングを狙っていました。テントを張ることもあるんですけど、荒れすぎて無理な時は車の中で寝泊まりして。条件が噛み合うと、本当にすごい風や雪になるんです。この写真も、かなり風が強い日に崖の上から撮っています。歩けないくらいの風で、三脚は使えません。飛ばされてしまうので。立っているのも危ないから、膝をついて撮っていました。大きな波が立って、崖に沿って上昇気流が生まれて、そこを鳥たちが飛んでいる。次の日には雪が降って、朝には晴れたんです。黒い浜辺に雪が積もっていて、波が打ち寄せたところだけ雪が溶けている。そこに鳥が飛んできたので撮った、という感じです。2018年から2020年にかけて、そういう季節の変わり目の荒れた瞬間を撮っていました。荒れた後に、ふっと静かになる瞬間があって、そういう時にも撮っています。

おおうち:うるまさんの写真って、賑やかなものもたくさんあるんですけど、どれも音が聞こえてこないんですよね。

竹沢:それは、言われてみるとそうかもしれないですね。感覚的な話ですけど、撮影中って、無音なんですよ。何も音が聞こえない。写真を選ぶ時も、もしかしたらそういう感覚で選んでいるのかもしれない。

おおうち:このあたりは人が住んでいない場所じゃないですか。でも、どこか人の気配がする。

竹沢:たぶん、そこに写っているのは僕自身の存在なのかもしれません。風景に対峙している撮影者としての人間の気配が、写真の中に残っているんだと思います。

会期:2026年4月23日(木)〜 2026年6月21日(日)
場所:art cruise gallery by Baycrew’s
東京都港区虎ノ門2-6-3
虎ノ門ヒルズ ステーションタワ ー3F SELECT by BAYCREW’S 内