地獄の始まりは“手抜き”から。宇佐美雅浩が描く、人と場所の曼荼羅。
〈art cruise gallery by Baycrew’s〉では現在、宇佐美雅浩さんの個展『Manda-la Somewhere』を開催中。25年以上にわたり各地の人々や文化を仏教絵画の「曼荼羅」に見立てて写し取ってきた『Manda-la』シリーズの初期作から最新作までを網羅する本展の開催に際して、制作の背景や創作観を宇佐美さん自身に語ってもらった。

絵を描くように。
ー 宇佐美さんって、肩書きとしては何になるんですか?
宇佐美:カメラマンから、だんだんと美術家と名乗るようになっていきました。
ー やっぱりそうなんですね。どういう経緯で?
宇佐美:最初は本当に商業カメラマンだったんですよ。今でも依頼があれば撮影するんですけど、作品制作に費やす時間が増えてくるにつれて、カメラマンという肩書きがしっくりこなくなってきて。それでひとまずは写真家と名乗りはじめたんですが、写真だけでなく、アウトプットの一環として絵も描くし、映像も作るから、“写真家”と名乗るのも居心地が悪いなと(笑)。
ー 確かに、純粋な写真というよりは、写真という媒体を使ったアートという印象です。
宇佐美:美術家と名乗るのもまだソワソワしますけどね。でも、こういうインタビューでもすごくよく聞かれるし、そろそろ美術家と名乗っても良いかなと。

ー キャリアはカメラマンから始まったんですね。
宇佐美:美大で写真を学んで、卒業後はADKという広告代理店に入りました。
ー 経歴として少し珍しいですよね。
宇佐美:CMプランナーとしての採用でしたが、撮影の現場を見ているうちに「やっぱり写真をやりたい」と思うようになってきちゃって(笑)。お会いしたカメラマンの人にも相談したんですが、代理店側の立場として制作のディレクションを学ぶのを薦められたから、結局4年ほど在籍していましたね。
ー 辞めたあとは、どなたかに弟子入りをして?
宇佐美:そうですね。操上和美さんという写真家のもとに弟子入りしました。

ー あ、そうだったんですね。それはあまり語られていないことですよね?
宇佐美:そうなんです。少し複雑で(笑)。弟子入りして半年ほどで、僕がテクニカルなことを全然できなかったので「一度スタジオで学んでから戻ってこい」と言われ、スタジオマンとして2年間みっちりライティングなどの技術を現場で学びました。その間にも、ロケがある時は操上さんの現場に呼んで頂いたりもしていました。その後戻ったら「もう自分でやったらいいよ。他の写真家にも弟子入りせずに」と言われて(笑)。だから、操上さんのところにいたのは、期間としてはものすごく短いんですが、今でも感謝していますね。
ー そもそも操上さんに師事しようと思ったのはなぜだったんですか?
宇佐美:『SWITCH』などで操上さんの雑誌仕事を見て、「こんなカメラマンになりたい」と思ったんです。人を撮るのも好きでしたし。当時は商業カメラマンとして一生やるつもりで、会社を辞めて弟子入りしました。

ー 現在の宇佐美さんの作品を見ると、その片鱗も少し感じられて面白いですね。これらの『Manda-la』はどのように作られた作品なんですか?
宇佐美:原型は大学3年の課題で作った作品です。それ以来、4×5の大判カメラとポジフィルムが自分の型になり、代理店時代も操上さんのアシスタント時代も作品作りを続けていました。今はデジタルですが。
ー その最初期の作品も、現在のように被写体を中心において、舞台芸術のように周囲をセットアップして撮影したものですか?
宇佐美:そうです。友人の狭いワンルームで撮った小規模なものでした。課題は「4×5の大判カメラで、ポジフィルムで撮影せよ」という内容で、課題って手を抜きたいじゃないですか。どう手を抜こうかと(笑)。シンプルなポートレートを撮影するつもりで撮影に臨みましたが、いつのまにか友人を真ん中に座らせ、彼を象徴するモノを部屋中から集めて配置しました。それが『Manda-la』のプロトタイプです。
ー 友人のその時点での人生を一枚に収めるような。
宇佐美:はい。大判カメラって手持ちができないから三脚でガチっと固定するし、暗い場所ではシャッタースピードも長いからパッと撮れない。だから、すりガラスに逆さに写った像を見ながら絵を描くようにモノの配置を調整していくんですね。この部分に赤が欲しいな、とか、ここが少し寂しいな、とか考えながら。
ー なるほど。
宇佐美:とにかく、カメラを動かせないということが僕にとってはすごく大事でした。そうして彼の作品や読んでいる本、部屋に転がっているコーラの空き缶などをレイアウトして、手抜きとか言いつつ1日かけてようやく撮影したわけですが、初めて撮影したときの、ポラロイドフィルムのシートを確認したときの情景は今でも鮮明に覚えています。

ー カメラとの相性が良かったんですね。
宇佐美:そうかもしれませんね。今もフリーハンドで絵を描くときは自然と4×5のサイズで枠を書いてしまうほど身体に染み付いています。
ー それはどういうことですか?
宇佐美:おおうちさん(※当ギャラリーのクリエイティブディレクター)に言われて初めて気が付いたことですが、数十年前におおうちさんとお仕事をご一緒した際に、打ち合わせをしながら一生懸命ラフスケッチを書いていたんですよ。いつもやっているように、白い紙に四角い箱を書いて。そしたら「ちょっと待って」とおおうちさんが言って、大判カメラの4×5サイズのポラを持ってきて、合わせてみたらぴったりだったんですよね。
ー それはびっくりですね。先ほど“絵を描くように”とおっしゃっていましたけど、まさしくな感じで。
宇佐美:何度も反復している作業だから、もう無意識なんでしょうね。いつも最初にラフスケッチを作って、それを何度も推敲し、決めてから撮影に臨むので。

ようやく作家になれた。

ー 『Manda-la』という作品群を紐解くにあたり、まずタイトルが気になったんですが、あの曼荼羅ですよね?
宇佐美:はい。仏教絵画の曼荼羅ですね。日本で有名なのは『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』。大日如来を中心に観音や阿弥陀が囲み、宇宙や真理を表す“すべての繋がり”を描いています。曼荼羅自体はもともとチベットから中国を通って日本に入ってきたものなのでさまざま解釈があって、そのなかで僕が好きなのは小学館の大辞典に載っていた解釈で、“Mandala”を“Manda”と“la”に分け、“Manda”は“宇宙”や“真理”、“la”は“表す”や“説明する”、つまり“真理を説明するもの”と訳すことができます。
ー すごく作品と合っていますね。
宇佐美:中心に人物がいて、そこから外側に向かってその人の人間関係が広がっていく。みんな繋がっているし、どこかでは鑑賞者とも繋がっているかもしれない。僕の作品を指し示すのにすごく的確な言葉だと思っています。だから“Mandala”と普通に書くのではなく、“Manda-la”という表記の造語にして意味を強調しています。ちなみにこのタイトルは、友人のコピーライターの小島富貴子さんに相談した際に「宇佐美くんだけの言葉を考えてあげる」と言われて作ってくれた言葉で、すごく気に入っています。

ー 実際の展示作品についても伺いたいのですが、秋葉原で撮られた写真は特に印象的でした。どんな作品なのでしょう?
宇佐美:2013年に撮影したもので、中心でベッドに横たわっているのは大塚健さんという、アニメ・ゲーム関連のグッズを扱うK-BOOKSの会長で、執事喫茶を始めたのも大塚さん。秋葉原の文化を形づくった人物のひとりです。彼は筋ジストロフィーという難病を幼い頃から患っていて、自力で目を開けることも呼吸をすることもできません。人工呼吸器をつけ、目はテープで開けています。5歳の頃に医者から「20歳まで生きられない」と言われたそうですが、55歳の現在もご存命です。撮影当時は経営にも携わっていて、社員たちは彼の口の動きを読み取りながら会議を進めていたそうで、その姿自体がすごく力強いと思ったんです。
ー 秋葉原で撮る、と決めた理由は?
宇佐美:もともと、いずれ秋葉原を舞台に『Manda-la』を撮りたいと考えていたんです。ただ、誰を主役に、どこで撮るかは決まっていなくて。まずはリサーチとしてメイド喫茶に行って話を聞き、さまざま辿っていって「すごい人がいる」と紹介されたのが大塚さんでした。実際にお会いしてお願いしたら「いいよ」と快諾してくださったんです。
ー 取材を重ねながら被写体を決めていくのですね。
宇佐美:そうです。テーマを立てて現地を調べ、人に会い、話を聞くうちに「この人だ」と主役が決まります。次は場所の選定ですが、これが本当に難しい。許可がなかなか下りないので、しつこく交渉してようやく実現します。
ー 秋葉原の作品は万世橋が舞台になっていますよね。これまた許可取りが大変そうな……。
宇佐美:何度も警察に通い、粘りに粘ってようやく許可をもらいました。大勢を集め、ダイナミックな形で完成したときは「よくやったな」と思いましたね。

ー 最近は原爆や震災などをテーマにされていますよね。
宇佐美:はい。東日本大震災は僕としても明確に、大きな転機と言える出来事でした。当時は広告や雑誌のカメラマンとして忙しくしていましたが、この大惨事に僕自身、かなりショックを受けたんです。「このまま作品撮ってていいのかな?」「こんな仕事のスタイルでいいのか?」って、自分の仕事に疑問が出てきちゃったんですよ。そのとき頭をよぎったのが、現地に駆けつけて写真を撮影しに行くべきか? でした。興味本位で現地に行ってバチバチ撮るだけになるのでは?「俺、それやるのか?」って思ったら、いや、残酷だなって感じたんですよね。それは、報道カメラマンがしっかり仕事をすれば良いと思いました。
ー はい、わかります。
宇佐美:自分に何ができるのかを考えた結果、『Manda-la』のスタイルで被災地を撮影しようと。とにかく、人の役に立つことをやりたかった。写真家として、本気の写真を撮ろう、って決めたんです。言われるままに撮って、納品して、お金もらって終わり。そういうのじゃなくて、これまでやってきたことをちゃんと生かして、“本当の写真”を表現することが、僕の役割だと思ったんです。それで、まずカメラを持たずにリサーチに行きました。気仙沼や福島にも、何度も足を運んで。
ー カメラも持たずに。
宇佐美:僕、全然撮らないんですよ。とにかくリサーチを重ねて、人間関係を築いて、それから初めて「何を撮るか」を考えます。決まってきたらラフスケッチを描いて、ようやく撮る。この流れが自分の方法になりました。東日本大震災をきっかけに、意識がガラッと変わったんです。ようやく作家になれた実感があります。それまでは、ただの“カメラマン”だったなって。
ー 広島の作品も同じ考えから?
宇佐美:そうですね。近代の日本が抱える問題にも関心がありました。広島は現地には知り合いもおらず、最初は強い不信感を与えているな、と感じました。というのも、当時ちょうど広島を題材にした作品が炎上していたこともあり、「東京から来た人間は信用できない」という雰囲気があったんです。そこで一つひとつ説明し、描いたスケッチを見せながら「こういう作品を撮りたい」と交渉をしていきました。結果として、構想から実行まで1年足らずで実現しましたね。
ー 逆に、最も時間がかかった作品は?
宇佐美:京都です。8年かかりました。撮影許可が得られなかったり、場所や人がなかなか決まらなかったり、何度もかわされたり……。何度通ったかわからないほどです。

ー 複数のプロジェクトを同時進行させているんですね。
宇佐美:そうですね。並行して進めることが多いです。何年も取り組んでいながら終わっていないものもあって、沖縄はまだ撮れていません。何十回も通いましたが頓挫し、今はペンディング状態ですね。
ー 撮影に踏み切る決め手は?
宇佐美:主役と場所が決まること。この2つが揃わないと何も進められません。ただ、僕が撮影しようとするのはいつも難しい場所ばかりで、許可取りが一番苦労しますね。

ー それだけの準備を重ねて、一枚の写真にまとめあげるのは気が遠くなりますね。
宇佐美:そうですね。人数が多いときは設計図を配って、現場の指揮もします。映画監督のようだと言われることもありますが、こっちは予算がないですから(笑)。もう、ただただ頭を下げて、皆さんにお願いしながら出演してもらうしかありません。
ー 今も進行中のプロジェクトはありますか?
宇佐美:今は少し落ち着いたところで。いろいろと精算しなければならないことがたくさんあります(笑)。今年個展で発表した東広島の作品などは資金提供を受けて撮影をしましたが、10年前の広島の作品以前は自費で、本当に苦しかった。カメラの購入で借金もしましたし。写真集を出すところまではなんとか走り切りたいですね。「ここで撮りたい」というストックは常にありますし、「これを撮りたい」というテーマもまだまだあります。
ー 手抜きの課題から始まったものが、今や数年単位で取り組む壮大な作品に……。
宇佐美:はい、雪だるま式に膨らんでいきました。結果、自分の首を絞めて苦しい思いをしていますが……このプロセスを経なければ僕の作品にはなりません。あの大学時代の課題が、地獄の始まりでしたね(笑)。

会期:2025年8月29日(金)〜 2025年11月3日(月・祝)
場所:art cruise gallery by Baycrew’s
東京都港区虎ノ門2-6-3
虎ノ門ヒルズ ステーションタワ ー3F SELECT by BAYCREW’S 内