無作為を作為的に迎え入れる。本城直季とおおうちおさむが語るアートとクリエイティブ。
〈art cruise gallery by Baycrew’s(以下、art cruise gallery)〉では現在、写真家・本城直季さんによる個展『Small Cruise』が開催中。本展のアートディレクションを手がけたのは、グラフィックデザイナーのおおうちおさむさん。それぞれ異なる立ち位置からアートと向き合う2人が、創作について語り合う。
本城さんは地球に振り回される作家。
おおうち:いきなり「本城直季批評」みたいになってしまうけれども(笑)、僕は本城さんの「思想を持ってなさそうなところ」が好きなんです。本城さんって、自分の作品に何かしらのプロパガンダや思想、信念を介入させず、こういった「ミニチュアのように見える現象」が面白くて写真を続けているように僕からは見えていて。
本城:確かに、そういうところはあるかもしれませんね。
おおうち:カメラは独学で習得したんですか?
本城:はい、基本的には。アシスタントにも就いていません。写真史や現像の方法なんかは学生の頃に学びましたけどね。
おおうち:やっぱり、そうなんですね。習っていないゆえの無邪気さみたいなものをすごく感じるな、と思っていました。
本城:以前に本で読んだんですが、インドの数学者で、新しい発想や変わったアイデアを次から次へと生み出してドキュメンタリー映画にもなるくらい数学界に功績を残した人がいるんですけど、その人は独学で数学を身につけたそうなんです。ちゃんと学習してないからこそ、自由でいられたんだなって。その人と自分を重ねるわけではないですが、そういうのってあるよなって思います。
おおうち:そもそもアート全般、勉強をすればするほど視野がせまくなっていく側面もあるから、ある意味ではジレンマですよね。きっと、教育する側も苦戦しているんじゃないかな。逆に教育を手厚くしすぎると、飛び抜けたものが出てきにくくなるしね。「新しさ」みたいなものが損なわれていくというか。それでいうと本城さんは、もう3回ぐらい「新しい人」になっていますよね(笑)。
本城:あはは。そうだといいんですけどね。
おおうち:時代が変わって、受け取り手の情報量も増えて、審美眼も養われていくなかで、どの時代でも新鮮なものとしてマーケットに受け止めてもらうのって、並大抵なことではないと思います。有名になって、定着して、ある程度経ったらごちゃっとシャッフルされてを繰り返していますし、写真という媒体の受け取られ方も徐々に変化していってるなかでも本城さんのイスは常にあるわけですから。それって本城さんの「行く場所次第」な撮影スタイルもひとつの理由な気がしています。これまでもこれからも、ずっと地球に振り回されていてほしいなって思うんです。
本城:行ってみたいところとか、撮りたいところはまだまだたくさんあるので、引き続き振り回されることになりそうです。
おおうち:そういう「行きたい」「撮りたい」を動機に活動をしていることがすごく伝わってくる。本城さんの写真って、本城さん自身が自分の写真をすごく好きで、楽しそうに撮っているところが良いんだよね。そういう先入観があるから、写ってる動物や人が活き活きとしているように見えます。
「なんかすごいのが来たぞ!」
おおうち:今回の展示は特定の編集軸みたいなものは設けずに本城さんの作品群を横断してキュレーションした、いわば“本城直季・大レトロスペクティブ展”なんだけれど、結果として本城さんの写真に引っ張られた部分がありつつも、このギャラリーらしい、既視感のない見せ方にできたかなと思っています。
本城:写真同士の距離が近くて、密集していますよね。それがすごく新鮮でした。壁の色もピンクとかブルーとか。これまでに体験したことのない、楽しい組み合わせにしていただいて。入った瞬間にわーっとなりました。
おおうち:本城さんの作品はホワイトキューブの広い空間に展示されることが多いですもんね。〈art cruise gallery〉は広さやL字壁など、ある程度の制約はありつつも、自由な展示空間を作れるギャラリーだな、と改めて感じました。本当は足元に写真を置いて実際に俯瞰の目線で見られるようにしてみたり、実験的なこともやりたかったんですけど、僕の小心者なところが出てしまって(笑)、実現には至らず……。ちなみに、作品についても少し聞いても良いですか?
本城:もちろん、どうぞ。
おおうち:ありがとうございます。ぼく、中山競馬場を写した作品(『Nakayama Racecourse, Chiba, Japan, 2005』)が大好きで、これ、本当にやばい写真だと思っているんだけれども(笑)、どういう経緯で撮られた写真なのかずっと気になっていたんです。もちろん偶然に起こったことで、狙っているわけではないんですもんね? そもそも個人の作品ではなく、依頼されて撮った写真ですか?
本城:これは依頼をいただいて撮影した写真で、当然ではあるんですが、依頼主から求められていたのは馬が走っているレース中の写真でした。カメラの位置やアングル、設定なんかを決めて、走り出すシーンを狙いながら待っていたら、急にピントの範囲の中に、この白い馬と赤い服を着た人が入ってきたんです。多分、興行を華やかにするための何かだと思うんですけど、「なんかすごいのが来たぞ!」と興奮して、急いでシャッターを切りました。
おおうち:なるほど。そうだったんですね。この「何かが起こるちょっと前」って感じがたまらなく好きなんです。やっぱり、偶然に勝るものはないですよね。偶然や無作為って、クリエイティブにおけるチャンピオンですから。
偶然と無作為を捕まえる。
本城:僕も、いつも撮影の際には「何か偶然が起こってくれたら良いな」と思っていて。無作為を作為的に迎え入れることができるのも、写真を好きな理由のひとつだったりします。偶然を逃さずに捕まえられるよう、常に備えているつもりではありますが、いつも思いもよらぬ方向から現れる。そういう想定外にシャッターを切らされる瞬間が、一番心がざわつくんですよね。
おおうち:無作為や偶然をちゃんと捕まえて、作品として成立させるためには、日頃からの鍛錬やインプットが必要になってくるんですよね。あらゆるクリエイティブに共通していることですが、質を上げるためにはやっぱりそういった積み重ねが必要で、スポーツで言うところの「練習は本気でやって、本番は気楽に」ですよね。その練習がとんでもなく大変なんですけど(笑)。本当に、千本ノックの毎日。でも、その蓄積があるから、偶然や無作為に反応できて、引きずり込むことができる。
本城:グラフィックデザインにもそういうところがあるんですね。
おおうち:ありますよ。けれど、おそらく写真とは少し考え方が異なっていて「完璧に準備していたところに想定外が混ざり込むことでスペシャルなものに昇華される」というよりは、むしろ出だしは頭を使わない。無作為にあれこれ試してみて、直感で「良いな」と感じられる色や線を捕まえられたら、あとは頭を使ったり、経験則に頼ったりして成立させるようなイメージです。
本城:ほー、なるほど。面白いですね。
寿命が長い写真。
おおうち:本城さんは、基本的には依頼仕事も「本城スタイル」を求められるわけじゃないですか。
本城:そうですね。大まかなエリアや、必ず入れたい被写体── 建物とかですね、そういうものを決めてもらって、あとはご自由に。みたいなことが多いです。だいたいイメージが固まったら自分で空撮用のヘリを手配して、あとは勝手にパシャパシャと撮影する感じです。
おおうち:僕がアートディレクションをした2021年の芸術祭『CHIBA FOTO』でも本城さんに千葉の何箇所かを撮り下ろしていただきましたが、仕上がりを見たときは本当に感動しました。僕は千葉が地元なんだけれど、見慣れたはずの千葉の景色が、本城さんのフィルターを通してアウトプットされた途端にすごく新鮮な風景に感じられた。きっと、こういうインタラクティブなやりとりがあると、何倍もアウトプットに凄みが増す人なんだろうな、と感じたんですよね。
本城:そう言ってもらえると嬉しいです。おおうちさんと初めてお会いしたのが『CHIBA FOTO』でしたよね。
おおうち:そうそう。それまで面識はなかったんですよね。もちろん本城さんの作品はずっと知ってましたけど、知ったばかりの頃は今とは違う見方をしていました。もっと言うと、方法論や見た目のキャッチーさばかりに目がいって、作品の本質を掴みきれないでいたんです。僕が本城さんの写真の本質に気が付いたのは、2020年の『(un)real utopia』展で見た、『tohoku311』というシリーズだったんですが、あれは依頼仕事ではなく?
本城:個人で撮影に行きました。被災した東北を記録した作品群で、震災が起こって、写真家として何かできることはないか、現地に行こうか、でもどうしようか、と迷っていましたが、記録として残すことで何か未来に繋がれば、と葛藤の末に撮影したことをよく覚えています。
おおうち:とても現実とは思えないような凄惨な景色が広がる東北を俯瞰した悲しい写真ではあるんだけれど、未来に残っていく写真って案外こういうものなのかもな、と思ったのも事実です。新聞や報道メディアが撮影したもののように隅々までピントがあった、いわゆる記録写真ではないのだけれど、僕はこの本城さんのスタイルがすごく有効に機能しているなと思ったし、きちんと撮影されたものよりもかえって寿命が長い写真になっているように感じたんですよね。今回の『Small Cruise』でも展示させてもらいました。
アートは誰のためのもの?
おおうち:最初の話に戻るんだけど、僕にとって本城さんは、作品に重いものを背負わせてないように思えて、見ていて安心できるんです。アート業界って、すぐに作品に重いものを背負わせようとするじゃないですか。ステートメントやキャプションだったりとかで言語化して、小難しくして。
本城:そうですね。そういうものは僕にとってはウソっぽく思えてしまうというか、手放しで信じられないところはあります。
おおうち:そう、信じられないんですよね。アート展ってそもそも、勝手に企画を立てて、勝手に作品を選んで、勝手に見せてくれちゃっている状況じゃないですか。それなのに過剰に知的な雰囲気に仕立て上げて、間口を狭めて、受け手の自由を奪ってる。それってどうなんだろう? そんなアートって、必要なのかな? そもそもアートって、誰のためのものなんだろう? という問いは、常に持っておかなくちゃいけないなって。
本城:うん、その通りですね。
おおうち:それでまた最初の話に戻るんだけど、そういう意味で、本城さんの作品は大勝利なんです。言語化もあまり得意ではないこともあって、ペラペラと作品について喋りませんし(笑)。
本城:確かに言語化は苦手ですね(笑)。
おおうち:それでも本城さんの写真って、幼心を刺激するような面白さがあるんですよ。アートへの理解度とか社会との接続とか、そんなくだらないことなんかよりもっと手前にある感性を、脊髄反射レベルでくすぐってくる。僕はアートって、そういうものであってほしいと思うんです。